「監督失格」を観る

映画「監督失格」を観る。平野勝之監督。林由美香主演。庵野秀明プロデュースで矢野顕子が主題歌って聞くと、林由美香も出世したなーと思ってしまう。

80年代のAVは今よりも随分牧歌的だったと思う。今のAVはどんなにルックスの良い人でも(桜木凛とか希志あいのとか、あのレベルでさえ)、本番が当たり前だろうけど、当時はそうではなかった。いまより数段粗いモザイクに守られて、普通の女優さんは「濡れ場」を演じていた。一部のプロ意識の高い女優さんと、何も知らずにうなづいてしまった女優さんと、本番でもしない限り売り物にならないような女優さんのみが本番を行なっていた。何も知らない感じの代表格は星野ひかるであり、プロ意識の高い女優さんの代表格が林由美香だった。

星野ひかるはその後引退し、たこ焼き屋で働いているところを写真週刊誌に掲載されたことがあったけれど、そのあとは公の場には出て来ていないと思う。対照的に林由美香は、20代どころか30代になっても女優業を続けた。幾つかの作品はAVの枠を超えた評価を得た。その代表例が「たまもの」だろう。
本作「監督失格」は、1996年、当時不倫関係にあった平野勝之林由美香が自転車で旅をしながらAV撮影をする模様がまず収められている。その後二人は破局をし、林由美香は他の男性と付き合ったりしていくのだが、平野と林の関係は途切れることはなく、そして2005年の夏にあの悲劇が起こる。
前半のバカップルっぷりに「しょーがねーなあ」と思っていると、これが罠となる。「しょーがねーなあ」の思いが強かった人ほど、後半の流れに感情移入してしまうと思う。ふたりともいつしか歳を取り、幾つかのバランスが変わっているような、でも根本部分では何も変わっていないような。

例えば恋愛がひとつ終わるときに、主観的に見ればとてつもなく悲しかったり悔しかったりして、それはもう一大事、のはずなのに、それまでと同じように会社に行き、飯を食い、生活を続けている。ただ、ふと気が付けば、その人と過ごした時間を思い返していたりして、それは確実にそれまでにはなかったことであり、些細な、しかし決定的な差異であると思う。そうした些細な差異をもって、自分の恋愛が終わったことを徐々に受け入れていく。夜を徹して泣いたり、やけ酒をかっ食らってふて寝したり、ということとは別の「リアル」というものが、そうした感覚の中に潜んでいると僕は思う。一過性の、ドラマチックな時間のあとにやってくる、実生活の中での喪失の受容、とでも言えばいいのか。

劇中において、林由美香はこうした喪失を客観的に受け止め、消化することが出来る人になっている。彼女はとても繊細で優しい人だから、精神のバランスを崩したりすることも多いのだが、そしてひとたびそのバランスが崩れた時には普段の彼女からは想像もつかないような幼い表情を見せるのだが、基本的に彼女は平野以後の人生を生きていこうとし、自分の幸せを掴むために悪戦苦闘する。
対照的に平野はこうした喪失を処理することができないまま歳を重ねていく。彼の苛立ちが言葉で説明されることは殆どないけれども、彼の作品内の彼自身の立ち居振る舞いにそのことは如実に現れている。
平野は、林が生きている間には、とうとう自らの喪失を受容することができなかった。そう書くと平野がとてもダメな人間に思えるかもしれないが、僕は平野の方が普通だと思う。林が自らの失恋を「ネタ帳が増えた」という表現をするシーンがあるけれども、その時の彼女は笑みを浮かべて明るくしゃべっているにも関わらず、ネタ帳というのはあまりに悲しい表現だという思いを禁じ得ない。人は自らに起こった失敗や喪失をそうそう受容できないし、受容できないからこそ何やかやと理屈をつけてそれらを「物語」にしようとするのだと思う。

そういう意味では、人が自らのうちにどのように喪失を抱えて歳を重ねていくのか、をこの映画は見事に描いていると思う。平野も林もそれぞれのやり方で自らの喪失を抱えているけれども、その抱え方は好対照といっていい。男女の差というのはちょっと乱暴すぎると思う。やはり林由美香という人の生い立ちの特殊性と無関係ではないだろう。最後の平野が林を振り切る場面で、やっと自らの喪失を平野は消化しようとする。それは、終わることから目をそらしたかったものが、実はもうとっくの昔に終わっていたんだと気づくことと同義である。ふと気がついて、人生のある段階を自分が通りすぎてしまったことに(過去形、もしくは過去完了形で)気がつくこと。そこで初めて自らの喪失を自覚すること。この映画ではそうした瞬間の切なさや辛さが正面から描かれている。そして、一般的に、人生において、そうした瞬間は誰にでもある。
それは、本当にある。